二代目 栖豊「寒川 次郎」
十九歳で初代に師事して以来、茶陶の道に邁進して参りました。
父が生涯を掛けて復興させた紀州焼を途絶えさせる事のなきよう、また父が独自に生み出した那智黒釉を引き継ぎ、自身の個性を活かした作品造りに日夜精進して居ります。
略歴
- 昭和二十一年
- 和歌山県高野口町で出生
- 昭和四十年
- 初代栖豊(父)に師事
- 昭和五十一年
- 二代目栖豊を襲名
- 平成七年
- 白浜町堅田から同町才野に登窯を移築する
- 平成八年
- 新転地にて初窯を焚く
- 平成二十三年
- 和歌山県文化振興知事表彰
- 平成二十四年
- 白浜町文化功労町長表彰
- 現在
- 和歌山県美術展覧会審査員
和歌山市美術展覧会審査員
田辺市美術展覧会審査員
各百貨店等で個展もさせて頂いております
初代 栖豊「寒川 義一」
初代栖豊は澤田 宗山氏に師事、陶技を身に付けました。
師の推挙により愛知県窯業研究所長の職を経て、昭和七年に高野口小田原に開窯しました。
一方その頃、次々と閉窯・衰微の一途を辿っていく紀州焼に、深く御憂慮されておられた旧紀州藩主 徳川 頼貞候は、この伝統ある紀州焼を継承し後世に伝える人物を探しておられました。
そのような折、頼貞候が栖豊の窯に訪ねて来られ、作品を鑑賞され高い評価を頂きました。
そして、頼貞候より紀州焼の復興を熱心に懇請され、栖豊もまたその熱意に感動し、紀州焼の復興に一生を捧げることを誓いました。
頼貞候はそれを非常に喜ばれ「紀州焼 葵窯」の窯名を命名されました。
その後、戦後の混乱の中貧苦と戦いつつも、研究腐心を続けていた那智黒釉を昭和三十一年に完成させ、更に紅志野、青磁、柿天目等にも力を注ぎ、
葵窯を発展させていきました。
昭和三十七年には、昭和天皇・皇后両陛下が南紀行幸啓の際に抹茶茶碗を献上させて頂きました。
また、文化庁より文化財功労者として表彰、二年後日本橋三越で作陶展を催し、同年和歌山県より文化奨励賞を受け、引き続き、白浜町より無形文化財第1号に指定されました。
享年七十七歳にて瑞宝双光章を受勲、様々な功績を収めました。
略歴
- 明治三十二年
- 大阪で出生 まもなく京都に移る
- 大正八年
- 前帝展審査員、澤田 宗山氏に師事
- 昭和二年
- 師の推挙により、愛知県窯業研究所長に就任
- 昭和七年
- 和歌山県伊都郡高野山小田原に窯を築く
- 昭和十二年
- 旧紀州藩主 徳川頼貞候より「紀州焼 葵窯」の窯名を賜わる
- 昭和三十一年
- 那智黒釉を完成
- 昭和三十七年
- 天皇、皇后両陛下に抹茶茶碗を献上
- 昭和四十二年
- 新転地、白浜町堅田に登窯を築く
- 昭和四十五年
- 文化庁より文化財功労者として表彰される
- 昭和四十七年
- 日本橋三越本店にて個展
和歌山県文化奨励賞受賞
白浜町無形文化財第1号に指定 - 昭和四十八年
- 東京、松山、大阪各三越店にて個展
- 昭和五十年
- 享年七十七歳、瑞宝双光章受勲